はじめまして。木村綾子と申します。
@kimura_ayako
文筆業をしながら、全国の蔦屋書店を舞台に本にまつわる企画と制作をおこなっています。書く人として、作る人として、作者と読者をつなげる人として……。本を耕す。本のある場所を耕す。そんな人でありたいという願いを込めて、最近では「耕書家」を名乗ってみたりもしてるのですが、イマイチ定着していません(笑)。
今回は、「自分と、向き合う。夏の終わりに読みたい本」をテーマに、実際いま私が読んでいる4冊の本を紹介してみたいと思います。
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2020/08/14 Fri.
本って、素晴らしい。木村綾子さんが薦める「夏の終わりに読みたい本」
はじめまして。木村綾子と申します。
@kimura_ayako
文筆業をしながら、全国の蔦屋書店を舞台に本にまつわる企画と制作をおこなっています。書く人として、作る人として、作者と読者をつなげる人として……。本を耕す。本のある場所を耕す。そんな人でありたいという願いを込めて、最近では「耕書家」を名乗ってみたりもしてるのですが、イマイチ定着していません(笑)。
今回は、「自分と、向き合う。夏の終わりに読みたい本」をテーマに、実際いま私が読んでいる4冊の本を紹介してみたいと思います。
8月の始まりとともに梅雨が明け、蝉もせーので鳴き出した。
やっと来た夏に向かって、身も心も軽やかに全力でダイブしたいところだけれど、それができないこのもどかしさは何だ。
振り返ってみれば、春先から今日に至るまで、私たちの生活からは多くの自由が奪われてきた。
外出の自由、人と会う自由、口を覆わずにしゃべる自由、愛する人に触れる自由……。
それでも絶対的強度を持って私たちの生活に寄り添っていたのが、本を読む自由だった。
誰かを思うように、ここではないどこかを描くように、本をひらく。
どう読んでもいい。何を感じてもいい。感じなくてもいい。
本を前にしたとき、私たちはいっさいの不自由から開放され、ときにはそこに、まったく新しい自分や、見失いかけていた大切な思いを見つけたりもする。
本という存在の、なんと頼もしいことか。
本のある生活の、なんと希望に満ちていることか。
世界規模の自粛を経てもなお続いている、「おうち時間」。
家で過ごす時間が長くなったいま、自分の暮らしを改めて見つめ直している人は多いのではないでしょうか。
いま住んでいる家の、私はいったいどこに惹かれたんだろう。家具や小物、食器や衣類……。いろんなものをずいぶんたくさん集めてきたけど、そのひとつひとつと、私はどう出合ったんだっけ。
『ホーム スイート ホーム』は、モデル・桐島かれんさんの暮らしとともにある「物」との出合い、そして思い出と未来が綴られた一冊。
子どもの頃からいつもそばにあった裁縫箱。母から譲り受けるのを待っている「伯爵夫人」と名付けられたバカラのグラス。世界各地で見つけてきた手編みのバスケット。引き出そうとするたびに心ときめく特別なドロアー。暖炉に火を入れ、ひとり静かに本を読む至福の時間……。
世界各地で見つけてきた手仕事や工芸品、日々愛用する生活雑貨、希少なアンティークの数々。それらと共にあった日々について彼女が語るとき、対象はたかが物とは言いきれない存在となり、一種の人格さえ立ちあがるよう。
「そもそも美意識とは嫌悪の集合体である」と、彼女の母は言う。
そうだった。美しいものや心地よいものを身にまとうことは、嫌いなものや醜いものを斥ける行為でもあった。私たちはそうやって、「物」によって健やかな生活を守ってもらってきたのだ。
著者の語る「物がたり」に耳をかたむけるほどに、いま自分とともにある「物」への愛しさが増す。不安定な日々が、絶対的安心感に包まれていく。
「胃袋ひとり夏祭り。下高井戸」「裏で煮ている。浅草橋」「ふたりの恋は始まるか? 新丸子」「ドーナツの奇妙な穴で。九段下」「優柔不断は死に至る。浅草」……。
これはすべて、平野紗季子さんが街に付けたコピー。控えめに言って最高。
『私は散歩とごはんが好き(犬かよ。)』は、著者が4年間をかけて歩いた58の街(ときどき海外)の記録が収められた一冊。
見開き1ページ、余すところなく敷き詰められる写真と言葉のコラージュ。順を追って読んでいけば、著者の視線がどう動いてどこで止まったかが分かって、その極めて主観的なまなざしと徘徊感が楽しい。いっぽう本を引いて眺めてみれば、コラージュそのものが街の顔にも見えてくるようで、驚く。
当たり前だけど、どの街も、全然違う。誰が歩くかで、見せる表情を変える。ああこの街は、彼女にはこんな顔を見せるのか……。嫉妬と羨望がないまぜになった感情を抱きつつ、私の好きな街を誰かに語りたくてたまらなくなる。
2020年8月。本当だったら東京オリンピックが開幕していたはずだった。けれど現実は、新型コロナウイルスへの不安で街は緊迫状態だ。
気の向くままに散歩に出かけて、寄りたいところに寄って、食べたいものを食べて、見たいものを見て、疲れたら帰る。そんな贅沢が戻ってきたら、真っ先に、どこへ行こう。
街をひとつひとつ思い浮かべていたら、東京に生きて20年が経っていたことに、ふと気づいた。
『ツレヅレハナコの南の島へ呑みに行こうよ!』は、彼女の愛する石垣島を中心とした八重山諸島、奄美群島の飲食店を紹介した一冊。
車の運転免許をとるべく滞在した石垣島での生活がきっかけで生まれた本というだけあって、ここに紹介されているのは、ご飯もお店もオススメスポットも、挿し込まれる風景写真や人の姿も、現地の生活と地続き。
アツアツの汁にふわふわと浮かぶ朝6時半のゆし豆腐。作業の手を止めて笑顔を向ける農家さん。うっそうとした森を抜けると現れるイタリアンレストラン。カメラを向けても逃げる素振りを見せない人懐っこいヤギ……。島唄と三線に合わせて客が皆で踊る姿からも、カウンターで肘つく女将の背中からも、オリオンビールと白身魚の天ぷらからも、静まり返った夜の商店街からさえも、共にそこにいたであろう人の姿が見える。会話や音が聴こえる。ご飯とお酒の香りとともに、場所と時間が匂い立つ。まるで自分が経験した出来事のように、懐かしさを帯びて。
どうやらこの分だと、“非日常をめいっぱい楽しむ旅”が、私たちに許されるのはもう少し先になりそう。それならば残りの夏は、ハナコさんのまなざしを借りて、南の島での生活を疑似体験してみるのはどうだろう。
「呑みに行こうよ! ちょっとそこまで」みたいな軽やかさでページをめくれば、鮮やかな海の青が目の前にぱっと開かれる。
たとえばそれは暑い夏の日の午後。昼食は簡単に素麺なんかを食べたあと、エアコンの効いた寝室で窓の外に蝉の声を聞きながら、タオルケットに包まり本をひらく。
今日はもう、読むこと以外なにもしない。携帯電話は電源から切ってしまって、呼び鈴が鳴っても居留守を決め込む所存。読んでる途中で眠ってしまっても、人差し指を挟んだまま閉じられた、そのページからまた再開すればいい。
気ままな時間を過ごしていると、現実と小説と夢の境目があいまいになる瞬間が訪れる。自分はいま意識があるのかそれとも夢の中なのか。この物語は、いったい誰のものなのか……。自分自身に対してまで無責任になれるあの贅沢なひとときの、なんと甘美であることか。
『なかなか暮れない夏の夕暮れ』は、本を読む幸福を小説で描いてくれた一冊。
ストーリーは、主人公・稔を取り巻く人物の現実世界と、彼が読んでいる海外ミステリーが切り替わりながら同時進行で進んでいく。
日がな一日本ばかり読んでいる稔は、気ままな一人暮らしの資産家。ひとたび読書に夢中になると、友人が訪ねてきても気づかないほど。物語のなかで稔が小説を開けば、読者である私たちの前にも小説の物語が開かれる。小説内小説にどれほど夢中になっても、稔が読むことを止めてしまえば、私たちも稔とともに彼の日常を再開しなければならない。
本を読む稔。稔が読む本の中の登場人物。それを読む私たち読者。境目がどんどんあいまいになっていく。脳が揺さぶられるようなその感覚が、なぜだか無性に心地よい。
「左手の人さし指だけが、まだあの場所にいる」
と、稔はいう。
現実と小説のあいだを指一本で行き来するようなその感覚。この表現に出合えた幸福を、全ての本読みと分かち合いたいと思った。
あなたの傍らには、いまどんな本がありますか?
その本について語るとき、どんな自分が立ち上がりますか?
本の中はどこまでも自由で、広い。
ときどき迷子になったりしながら、また会える日まで、楽しく健やかに過ごしましょう。
木村綾子
文筆業・企画
1980年生まれ。静岡県浜松市出身。明治大学政治経済学部卒業後、中央大学大学院にて太宰治を研究。文学修士課程修了。10代から雑誌の読者モデルとして活躍、2005年よりタレント活動開始。2020年より「蔦屋書店」で本にまつわる企画と制作。文筆業の他、ブックディレクション、イベントプランナーとして数々のプロジェクトを手掛ける。著書に「いまさら入門 太宰治」(講談社)「太宰治と歩く文学散歩」(角川書店)「太宰治のお伽草紙」(源)など。
Twitter:@kimura_ayako
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